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星界の道~航海中!~

星界の道~航海中!~

国立戒壇論の誤りについて(1)

国立戒壇論の誤りについて
阿 部 信 雄

国立戒壇論の誤りについて
一、序  論
 末法の本仏宗祖日蓮大聖人の大仏法は、今日嫡々の付法に依って第六十六世日達上人まで継承せられ、金口の血脈は厳然として末代の世に清浄無染の法水を伝えている。また近年創価学会による不惜身命の折伏の功は、日本国中、津々浦々に及ぶのみならず、遥か太洋を越え、雪嶺を凌いで、世界各地に本因下種の大御本尊を流布せしめている。かかる仏法興隆の事実は、もとより直達正観の仏法の勝妙と、正系血脈の伝持によるところではあるが、歴代創価学会会長の卓越した信心行学と指導の賜であり、また大御本尊の功徳を確信した信徒各位の、歓喜に燃えた信行折伏の熱誠の結果に外ならない。これこそ、新しき民衆仏法の黎明といわずして何であろうか。 そして、法華講総講頭池田大作先生の発願と、八百万信徒の一致団結の供養によって建設中の正本堂は、世界に冠たる平和祈願の大殿堂として、本年十月十二日に完成の運びとなっている。
 かかる時に、日達上人には、本年四月二十八日、立宗七百二十年の佳日を選び、「後代の誠証となす」として、正本堂の意義につき、重大な訓論を発せられた。即ち「正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との御指南である.
 茲に、霊峰富士の麓に聳え立つ大宝塔の意義顕彰となる。日蓮正宗の僧俗は、この訓論に込められた猊下の御精神を体し、異体同心に広布の大道に邁進すべきである。
 蓋し、日蓮大聖人の仏法は、本来世界的大宗教である。正本堂に御安置される本門戒壇の大御本尊は、末法万年、全人類の闇を照らし晴らす法体である。然しながら、法の尊貴は、その法を伝持、弘通する人によって、はじめて顕揚せられることも疑いない。故に、日蓮正宗は、妙法の光の到来を待つ全人類にとってその希望の存在でなくてはならないと信ずる。
 しかして、ここでどうしても解決しておかなければならない問題がある。それは、国立戒壇の問題である。本宗内においても、一時期、本門の戒壇のことを国立戒壇と呼称したことがあった。しかし、広宣流布の現実の段階に入った今、はたして、国立戒壇が、大聖人の御正意であるか否か、現時においてなおかつ国立戒壇論を、主張することが正当なのか、誤謬であるのか、大聖人の仏法の本質論、現代の国家に対する認識の上から検討されなくてはならない。
 ところで、この点については、すでに昭和四十五年五月三日、東京日大講堂における創価学会総会の席上で、法主日達上人猊下は甚深の御胸中より、左の如く宣言せられている。
 「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて、国立戒壇という名称を使っていたこともありました。しかし日蓮大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に国立戒壇などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。
 明治時代には国立戒壇という名称が一般的には理解し易かったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。
 今日では、国立戒壇という名称は世間の疑惑を招くし、かえって布教の邪魔にもなるため、今後本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。」(以下省略)
この猊下のお言葉にすべて明らかであると思う。大聖人の仏法が、一閻浮提の宗教であるという本質論、国立戒壇という名称をかつて使用した背景、その名称を永久に廃棄するとの宣言が、この短いお言葉の中に含まれている。
 この鳳詔を拝し、かつまた訓諭にもとづき、将来にいささかも疑義が生ぜざるよう、猊下に逐次御指南を仰ぎつつ、茲に一論を上梓する次第である。

二、国立戒壇の由来
戒壇とは、宗祖日蓮大聖人所弘の三大秘法の一つである。その戒壇の内容に言及あそばされた御文は、四百有余篇の御遺文中、三大秘法抄と一期弘法抄に拝するのみである。しかし、それらの御文に国立戒壇の語は見当らない。また二祖日興上人が大聖人の御付嘱を受け、戒壇建立を目指して富士に法燈を掲げたまいしより、御一代の著作記述中にも国立の字句はなく、三祖日日上人以下明治以前の歴代上人の著作申状箸にも国立の二字を見ない。
 これは、他の日蓮門下においても同様であって、恐らく明治以前には全く見当らないであろう。特に古来、他門系では三大秘法抄を意識的に無視または否定して、即是道場の理壇説を立てる者が多かったので、この点猶更のことであろう。明治に入っても、明治三十五年にいたるまで、国立戒壇ということをいった文献は見当らない。
 最初に国立戒壇なる語を使用したのは、身延派日蓮宗より出て在家の教団を組織し、明治三十五年本化妙宗式目を論述した立正安国会(後の国柱会)主、田中智学である。立正安国会は大正三年に国柱会と改称したが、その国柱の名でも察せられるように、また当時の同会の出版物に徴するも、彼は明治の時代に伴う国粋主義者であったことが明らかである。なかんずく彼の著述である本化妙宗式目は、当時の日本の国体思想を擁護した彼の代表作である。その所論は、王政復古以来の国体の精華をいやが上にも高揚する惟神思想と、神勅主権の憲法にもとづく国家観に貫かれている。いわば大聖人の仏法を、当時の時代風調に乗って、摧尊入卑せしめた思想だったのである。しかし、時流に巧みに迎合し、かつその才能に任せて論じた式目の講義は、大袈裟に表現すれば、一世を風靡した観すらあり、一般日蓮門下にも相当多大の反響を呼んだようである。
 国立戒壇の名称とその思想が初めてあらわれたのは、まさにこの智学の式目の中においてである。
 彼の国立戒壇論の要点をあげるならば
 一、大聖人の御一生は国教の奠定(てんてい)にある。
 二、大聖人の本門戒壇は国家中心である。世界の教法統一の根本として国家の道法化を目標とすべし。
 三、三大秘法抄の王仏冥合とは法国冥合ということであり、その本門戒壇は、勅命国立の戒壇である。
 以上の三点を一言でいうならば、彼の戒壇論は国家中心、国家対象ということに尽きと思う。その諤々の議論は、あくまで田中智学個人の見解であり、大聖人の仏法を曲解するところより生じたものである。日蓮大聖人の仏法は、国家次元の宗教ではない。人類共通の根本テーマである生命を根源的に掘り下げた、悠大なスケールをもった大宗教であり、一明治、大正の時代に通暢して、他に通じない国家主義団体の思想とは自ら月べつの相違がある。
 さて、大正より昭和初期に至る間、右の国柱会を中心として、一般日蓮門下に富士戒壇論が盛んになるにつれて、必然的に本宗僧俗との間に論議接触が生ずるようになったのである。
 国柱会系の富士戒壇論に共鳴する者は、その意義を論じつつも、肝心なる戒壇に奉安すべき本尊の実体について明らかでなく、或いは仏像造立といい、或いは大聖人御直筆御本尊中より時の国王の奠定されるところであると論じ、甲論乙駁帰趣を知らない有様であった。これらの信士、学人がたまたま当宗の法義を瞥見し、その浅見的判断より本門戒壇の大御本尊その他の法義を、卒時に批判する者があらわれた。これに対して本宗の僧俗が断固として反論し破折を加えたのも、当然であった。
 この論議は、主として戒壇論が中心であったから、論中に本門戒壇に関する表現が必要となりかつ使用されたのである。この場合に当宗の法義を論難する相手が先に、田中智学の創唱する国立戒壇の名称を使用したのである。これを受けて立つ当宗側においても、当時として特に国立戒壇の名称を積極的に嫌う理由も発見されず、というより論議の的は、国立か否かということではなく、その戒壇にいかなる本尊が安置されるべきかということにあったため、国立戒壇という表現は、相手の表現に応じて使用し始めるようになったのである。
 これが国立戒壇の名称がわが宗門で使用され始めた経緯であり、決して前に挙げた国柱会の思想に同調して使用したというものではない。
 宗門関係の文献に国立戒壇の用語が初めて見出されるのは、大正元年十月、宗門機関誌白蓮華七巻十号に、正宗信徒荒木清勇氏が要法寺の富谷旭地霑氏の批判(本宗の戒壇本尊への論難)に対して、その妄を破す中に用語として使用している。
 次は大正三年、白蓮華九巻一号に掲載の記事中、本宗奈良教会信徒と、日蓮宗某の問答の抄略記に見出される。
 「我正宗の本尊は…国立戒壇建立の暁本門戒壇の大御本尊として奉安せられ云云」の一語を見るのである。
 その後、昭和に入ってからは、国立戒壇の語が、宗門の文献に、多少散見される。しかし、いずれも、国立戒壇論として、積極的、体系的に述べられたものではない。(もっとも小笠原慈聞師のように例外はあるが)
 以上の経緯からして、国立の用語は、明治維新後、日本国体の尊厳意識と惟神的国家思想が急激に鼓吹され盛んになったことに付随して発生したものである。したがって、それは明治以降の日本社会の思想的特殊性における一つのあらわれといえようが、それ自体にわが宗門の法義上の絶対性や本質があるとは、到底考えることはできない。
 最も大切なことは、遣使遷告の血脈の次第から、現御法主を大聖人と仰ぐべきであり、現在においては御法主、日達上人現下の御意向を仰ぐのが正しい。
 その御当代日達上人が、序論にあげたように昭和四十五年五月三日において、また同年五月三十日、三十一日の寺族同心会の御説法、都合三回にわたって、国立戒壇を今後宗門として使用しないことを宣言あそばされている。更に、本年四月二十八日の訓諭においても、国立戒壇の文言こそないが、明らかに国立戒壇を否定された前提に立たれている。
 それは、未来の広宣流布への大方針の宣言であることを銘記すべきである。

三、三国の戒壇建立の歴史について
次に仏教上の戒壇の歴史について一覧する。戒とは防非止悪の義で、五戒、八斎戒、十戒、四十八軽戒、二百五十戒、五百戒等、大小乗を通じ、在家出家それぞれにたもつべき詳細が定められている。要は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の四句偈をもってその根本精神とするのである。壇とは土を盛り上げて特別に高く作られた受戒の場所を云う。
 始め仏陀の制戒は対象により時と処を問わず行なわれたから、市中山林至るところが戒場であって、特別に壇の設置はなかった。それが戒相として次第に整足されるようになって場所を定め、壇を設けて受戒が行なわれたのである。
 唐僧道宣の戒壇図経によると、壇場を明すことも、もとは仏であるとし、昔は光明如来が初めて建立を説く故に人の謀りごとではないと断わっている。仏法の最高最大なる本門の戒壇も、この根本に照らすとき、仏意による建立と拝すべきであろう。
 さて、歴史的には仏(釈尊)が祀園精舎にあったとき、樓至比丘が仏に結戒受戒のために壇を作らんと請い、許されて三壇を創置したという。即ち仏院の東に比丘のための戒壇を、西に比丘尼のための戒壇を、外院の僧院に更に一壇を作ったとあり、これを釈尊在せの戒壇の濫觴とする。また当時の仏弟子は修行のために作法によって結界し戎場を定めた。四分律刪補随機羯磨疏第二に「戒とは通じて止行を収む。場とは精?を挽択す乃至諸部に或は戒壇と名く。中国の寺には別に之を置く。此の郊壇の相の如く作法毎に階に登り位に就く也」
と結界の内面の戒場に戒壇を設けたことを示している。してみると仏教教団の発達と共に樹下山林或は寺院等いたる処に戒壇が設けられていたと思われる。また戒壇図経に、仏滅後三百年大阿羅漢優棲質那が北印度烏伏郷国に大寺を作り、石戒壇の縦広二百余歩あったことを記している。並びにこれらは僧侶が築いたものと思われる。さらに西域求法高僧伝に那爛陀寺の戒壇を除して
「根本殿の西に仏歯木樹あり。是れ楊柳にあらず。其の次の西畔に戒壇あり。方大尺一丈余ばかり云云」
とあるのは、当寺が摩竭陀国王舎城の北にあって、仏滅後間もなく国王帝日が深く仏教に帰依し大伽藍を創建してより、六代の王が次々に増建するところであり、寺全体が国王の外護建立であるが、戒壇自体は小規模であったようである。
 中国においては劉宋元嘉十年(AD四三三)僧伽跋摩が印度より長安に来って衆を化導し、翌十一年南林寺に戒壇を立て僧尼に授戒せしめたのを最初とするといわれる。道宣律師感通録には晋の竺法護が瓦官寺に壇を建て、支道林は石城、扮州に、支法存は若耶渓に、竺の道一は洞庭山に、竺の道生は呉中虎丘山に等々、多くの訳経三蔵や中国の高僧が戒壇を建てたことを記している。次に道宣律師自ら唐の高宗乾封二年(AD六六七)に戒壇を建てたことが僧史略に見えており、以上の戒壇は憎の建立てある
 中国における国王の関与としては、憎史略巻下に唐の代宗永泰元年(AD七六五)に大楽善寺に勅して方等戒壇を建て、須うる所の一切は官供なり、と伝えている。更に下って徳宋貞元十二年(AD七九六)永泰寺に勅して戒壇を置き、懿宗の感通三年(AD八六二)四月一日京師の左右両街の四寺に勅して各々方等戒壇を置かしめたとある。これらは唐朝の仏法外護を示すもので、勅に依って行なわれ、その費用が官の供養によって築かれたことは、しいて官立といえばいえるであろう。因に方等戒壇とは大乗戒による戒壇である。かように中国では大小の戒壇、または僧侶や国王による戒壇が建てられていたのである。
 次にわが国においては天平勝宝六年(AD七五四)四月五日、東大寺盧遮那殿前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙帝以下太后・太子・公卿等四百三十人が鑑真和尚によって受戒したのが、本朝登壇受戒の始めである。ついで五月一日、勅して壇を大仏穀の西に移し、戒壇の堂字を建立経営せしめられた。本朝戒壇院の濫觴である。同七年二月、別に戒壇院を設け、更に宝字三年(AD七五九)鑑真は唐招堤寺を建立し、淳仁帝は詔して戒壇を築かしめ、自ら菩薩大戒を受けられた。そして「諸宗の度者は先ず招提に入って受戒学律せよ」と天下に詔したので以来諸宗の得度者悉く此処に趨くに至った。同五年春、鑑真は奏上して下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に各々戒壇を建て、中国、東海道、西海道の三処に区分して受戒せしめることとなった。
 六十余年の後、天台憎最澄は久しく比叡に住して法燈を掲げていたが、畢生の念願たる大乗戒壇独立のため、弘仁九年五月二十一日(AD八一八)天台法華宗年分学生式を提出し許可を請うた。また八月二十七日勧奨天台年分学生式を重ねて上奏している。
 由来南都の戒壇は鑑真の伝えた法華一乗の円意による戒法的精神を有していたが、南都教界に法華の開顕の妙旨が理解されていないところから、それが戒法の基本とならず、法相三論の権大乗思想と共に小乗戒に定着していた。桓武天皇の勅命による南都学匠の天台習学も徹底するに至らず、かえって三乗真実一乗方便の偏見に再住して北嶺の振興を妨害した。しかるに比叡山に戒壇がないため、天台宗の受戒者もあえて南都へ登壇せねばならなかったのである。従って二十四人の得度者中十四人は南都に至ったまま帰らぬ時もあったという。茲に最澄は法華一乗の光顕のため、自宗の維持防衛と発展のため、断固として小乗の戒壇を踏む非を鳴らし、円頓戒壇の確立を上申したのである。嵯峨帝は南都の憎綱に可否を閲せしめ、南都諸憎は翌年まで態度を保留した。そこで最澄は翌十年三月十五日、更に天台法華宗年分者向小向大式を上奏し、凡そ印度と中国には一向小乗寺一向大乗寺大小兼学寺の三種制あれど、当時の我朝に一向大乗寺が存在せず、また法華一乗の菩薩大戒の伝流の地なき故に、この大道を建てられんことを重請した。〈伝教大師全集一-五四三〉
 学生式の上表より一年を経て南郡の協議は漸く一決し、五月十九日護命長慧等は上表と奏文をもって最澄に対する反撃を試みた。また東大寺の景深は迷方示正論を作り二十八失を挙げて学生式を駁したと伝える。最澄は為に顕戒論三巻を著わして護命等の上表、奏文を弾劾、その妄愚を破し、遂に南都の諸人を閉口せしめた。このように南都に対する三乗一乗の権実論、小戒大戒の論諍は理論的に明らかに最澄の主張が勝利を収めたが、実際には教門における日本の重鎮として権威並びのない南都は、聊かもその権利を譲り渡すに至らなかった。朝廷の意志は最澄の願う大乗戒壇に傾いていたが、南都の頑強な拒絶によって敢て行なうに至らず、ついに最澄存命の日には勅許は下りなかったのである。
 弘仁十三年(AD八八二)六月四日最澄入寂に村し天皇は深く哀惜したまい、七日を経た六月十一日をもって、叡山大乗戒独立允許の官符が発せられた。(伝教大師全集五附録一〇九)又翌年二延暦寺の勅額および太政官牒が下った。それには、天台宗の得度は治部省及び南都憎綱の手を経るを要せず延暦寺にて行ない、延暦寺の別当は得度者に度牒を与えた後、治部省に下知すべきを定めている。依て三月に権中納言藤原三守と右中弁大伴国道を延暦寺別当として、年分二人を度し、四月には伝教の弟子義真によって菩薩大戒の受戒が延暦寺に行なわれた。
 これより後淳和帝の天長四年(AD八二七)始めて勅を奉じて座主義真が円頓の戒壇院を叡山に建立したのである。
 けだし宗祖大聖人が土木殿御返事(全九六三)に「伝教大師の御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円戎は死後に之を顕す。事相為る故に一重大難之れ有るか」
と仰せられたのも、迹門戒壇の難事をもって本門に例されたものであろう。
 このように三国にわたる戒壇建立の史実を見てくると、夫々の時代と実情による特殊性があり、一様でないことが明らかである。そして時代が下るに従って難の多いことも、大聖人の右の御金言に対して看取されよう。
 天平勝宝にあっては国主の信篤く、妨害者もなく師檀一致して戒壇を建立した。これに対し叡山の天長年間の戒壇は南都の様々の抵抗を漸く斥けることをえて義真が奉勅して建立したのである。
 已上三国の仏法流伝における戒壇建立は、個別的と全体的、小規模と大規模、僧侶の建立と国王の建立、勅詔の有無等その実情は誠に多岐であって一定しない。茲に注意すべきは、国王が造られた例であったとしてもそれは国で造ったというより、国王の信仰によって国王個人か造立したのである。
 以上のことからも、末法本門の戒壇が国立いう名称を付さねばならぬ理由はない。大聖人の仏法は日本一国のみでなく、全世界の民衆救済のため伝道すべき大法である。これに対し世間の法制制度、政情等の有為転変は無量であって、国立戒壇に執われることはかかる問題にみずから制約を作ることとなる。そのような考え方こそ大法流布の妨げとなるものであることを述べて、三国戒壇の略見を終る。

四、国立戒壇論における国家観の誤謬
 これまで述べた通り、国立戒壇という呼称や思想が、明治三十年代以後の、国家主義的思潮が盛んになった時代背景の中で生れたものであり、戒壇史の上からも国立ということが戒壇建立の必須条件ではないことが明らかになったと思う。
 しかるに、今日なお、大聖人御遺命の戒壇は国立なりと主張する人々があるが、その論拠と内容は如何なるものであろう。
 実は、一般的に過去において国立戒壇を論じ或はその名称を使用した人々も、ほとんどは、只抽象的に、いつの日か天皇や権力者が帰依し、日本国中に広まる時がくる、その時、天皇の発願で立てられると、はるか彼方の夢の中のような宗教的願望を述べていたにすぎないと思われる。現実の問題として、国家における権力というものとの関係をくわしく分析した上で、具体的な方法論として述べたものは皆無といってよい。厳密にいえば、これらは[論]とはいえないであろう。立宗以来、今を去るニ十七年前まで七百年近くの間、日本国の国主は天皇であった。その間の宗教と、政治権力の現実の姿は、時の最高権力者を動かさなければ、戒壇建立も不可能な状態にあったことは歴史的事実でみる。そのような社会的背景の中で、微かな教勢のもとに各々の時点において戒壇を考えるならば、皇室を中心とする社会機構としての考えを持つことは当然である。
(歴代先師の中には、戒壇建立について言及された方もあるが、その表現は慎重を事とされ、ことに具体的な予定等にはまったくふれられていない。これは、その時になってみなければわからないという要素が多いことを深慮されたからであろう)
 しかし、このような考えが逆に、現代において戒壇建立を想定するとき、大聖人当時のような天皇制や幕府体制が存在しなければならない根拠は決してありえないと信ずる。
 およそ仏教教義には、純粋な真理、教法、修行等の成仏に関する部分と、社会現象との相関関係にある部分とが存在する。
 注意すべきは、後者、即ち、社会現象とのかかわり合いのある部分であって、外的な条件の変化によって、そこにはおのずから一線が引かれなくてはならない場合があるということである。
 例えば、大聖人は、時の最高権力者である皇室や執権に対して諌晩あそばされた。現代において我々が、大聖人の御遺命どおり国家諌暁を行なわんとするとき、皇室や執権を相手にしなくてはならないと考えるのが時代錯誤の論であることは、だれでも納得するであろう。第一、執権などは既に存在しないし、皇室は、新憲法下では主権者たる立場ではない。正しく解するならば、大聖人の御正意は、[時の最高権力者]に対して諌晩せよということであって、[最高権力者は誰でなくてはならない]ということまでは規定しようとされていない。そして、今日、最高権力者は、主権者である国民であることは論をまたない。つまり、国民一人一人への折伏こそ、現代における国家諌暁たるゆえんでみる。時の最高権力者の地位を占めるものが皇室か幕府か国民か、あるいは自由主義者が天下をとるか、社会主義者が政権をとるかということは、仏法の本質とは何らかかわり合いのない純然たる政治の世界で決まるべきことである。大聖人の仏法として関心を持つべきは、これら最高権力者が妙法を信仰し尊崇し、これを根底として行動を行なうという点につきるのである。もしそうでなければ、最高の俗間を超えた次元にある仏法が、低次元の政治によって規定され、支配される結果となるであろう。又、特定の権力機構や政治体制を認めないものは、信仰できないということになる。
 かかる政治上の信条如何により御本仏への純粋なる信仰を妨げることは、仏法の普遍妥当性、万民救済という本質をねじまげる結果となろう。御在世当時の最高権力者が皇室であったから、大聖人はこれを国主、或いは王と呼ばれたのであって、いつの時代も永久に、そうであるべきだということまで規定をされたのではないのである。
 また大聖人ご自身も必ずしも天皇のみではなく、時の北条幕府の最高権力者をも王、国主と呼ばれているように固定化して表現きれていないことにも注目すべきである。
 我々は、かかる原則の上で、今、まさに戒壇建立を夢物語ではなく現実の問題として、具体的にその性格や次第を論ずべき立場にあるのである。この場合仏法の解釈としては他義をまじえず、あくまで大聖人の御真意を誤まってはならない。また、対象となる社会は、(もちろん未来への展望をはらんだ意味での)あくまで現実の社会を認識しなくてはならないのである。広宣流布のときは鎌倉時代の封建体制や、明治憲法の君主主義を復活せよなどという主張は、時代認識を誤っているということの他に、大聖人の仏法の教義に、それ以外の要素を持ちこんで教義とするということであり、大変な誤りとなる。この点、御法主上人の深い御内証としての、四月二十八日の訓諭を拝さなくてはならないと考える。
 以上述べたところから明らかなように、過去において、ばく然と抽象的に述べられた国立戒壇の論議は、その時代や社会体制を背景として考えられ得る戒壇について、宗教的願望として述べられたものであって、(時代背景と思潮について、多少のずれがありうる。いわゆる下からの主体的変革のときは、思潮が時代に先行するが、他から与えられた形での変革では、変革後も前代の思潮がしばらく残存する。戦後しばらくの間、国立戒壇の考え方が残っていたのも敗戦による他動的な変革の故に、明冶憲法的感覚が残存したものであろう)それが後代の政治体制のあり方までを拘束するものではないということである。まして、戒壇の現実的考察がこれによって規定されるものではない。
 ところで、以上述べたような抽象的国立戒壇論の他に、今日具体的な考え方として、国立戒壇を主張するものが、ごく少数ではあるが存在する。
 その主張するところは、
 一、戒壇は、日本一国を単位として、国家的な次元で正法帰依の為された時に、国家的公事として建立されるべきものである。
 二、戒壇建立は、国家的意思の表明として天皇の詔と国会の議決(又は行政府の決定か、いずれともとれるが)にもとづいて、国家の手で行なわれるべきである。
というものである。
 その根拠は、
 一、三大秘法抄にある王法とは、国家の統治主権と解釈するべきである。
 二、この統治主権を人に約せば、即ち国主=王つまり(現時においてもなお)天皇である。主権在民といっても、よくよく本質をみれば決して国民が統治をしているのではなく、国家そのものに統治権がそなわっているのであって、ただ、この統治主権に民意を反映せしめようとの指向を主権在民というだけである。(( )内は筆者)
 三、三秘抄にいう[王臣一同]の王は天皇、臣は、直接政治にたずさわる大臣に万民を摂するものである。
 四、三秘抄にいう[勅宣]とは、現時においても天皇の詔であり、御教書は、政府意思の決定と解すべきである。今日、国事には、議会の議決だけでなく、天皇の承認が必要となっていることからして、これは決して不可能ではない。まして、国事の中の大国事である戒壇建立には、当然天皇の詔と政府意思の決定が必要である。
というものである。
 この、今日における国立戒壇論は、政治と憲法の上から、極めて幼稚な誤りを犯し、それによる現実の社会に対する認識の誤りが、まことにこっけいな時代錯誤の結論を導いていると思う。これらの点は、いずれも教義以前の社会認識の誤りの問題が多いのであるが、論をすすめるに当って、二、三指摘しておきたい。
 まず、王法が即ち国家の統治主権なりとの主張は、何の根拠もない独断であると共に、政治学上の概念である統治主権という言葉の理解が足りないようである。
 そもそも王法という言葉が、当時いかなる概念をあらわすものとして用いられたか。一つには公の儀礼(有職故実がその作法として知られる)を指す言葉として用いられたとする歴史学者の考証がある。その信憑性については、ともかく、もしそうだとすれば儀礼というものの本質精神は、それによって、行なう者の姿勢や心がまえ、或いは人格や道義の高さを表にあらわすためのものである。ここに王法即ち儀礼というときは、単に形式だけではなく、この本質精神をもふくんでのことであろうと思われる。
 仏典上は、印度弥勒菩薩造とされる唐玄奘訳の「王法正理論」の題号等にみられるように、王自身が踏むべき道、いわゆる[王道]を意味するものとして用いられている例がある。([王道思想]は東洋独特のものであり、西欧に発達した近代国家の場面で用いられる[主権概念]とはまったく別個の思想のものである)
他宗ではあるが、真宗の蓮如の唱えた「王法為本」の王法とは、王の為す政治内容という意味で用いられている。
 それでは、肝心の大聖人の仰せられる[王法]とは何であろうか。
 しばらく他の御書の御文によって、王法という言葉がどのような意味に用いられているかを拝してみよう。
 「王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し」(富城入道殿御返事)(全九九四)
 右文の王法とは、一応王の発する命令、法令であると解されるが、命令、法令を発することは即ち政冶の枢要な行為であり、つまりは王の行なう政治というようにも解釈できる。
 「王法と申すは賞罰を本とせり」(四条金吾殿御返事)(全一一六五)
 右の文は、王の行なう統治の原理の本質について述べ給うところである。つまり、この王法とは、具体的な命令や法令より一歩立ち入った、その根底にある基本原理と拝される。
 「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)(全八四九)
 右文では、王法とは、個人ではなく、支配体制としての政権の担当者を指されている。
 「王法の栄へは山の悦び、王位の衰へは山の欺きと見えしに、既に世、関東に移りし事なにとか思食しけん」(祈祷抄)(全一三五三)
 ここで王法とは、平安時代の政権の主体者として、具体的に、京都の皇室を指されている。(山とは、山家=天台宗のことである) 「王法の曲るは小波、小風のごとし、大国と大人をば失いがたし」(神国王御書)(全一五二一)
 ここで王法とは、政道とでもいえようか、王の行なう政治の基本姿勢、政治原理である。
 以上見たところを整理すると、[王法]は二通りの意味に用いられているといってよい。
 第一は、文字通り、王の法であり、王のなす政治内容といという意味である。それは、権力主体者の発する法令(治世の命令)という具体的な側面から政治の基本姿勢、原理という理念的側面までをふくむものとして用いられている。
 第二は、王そのもの、つまり、国家の最高権力者の意味に用いられている。当時の日本では、それは皇室、或いは皇室を中心とした支配体制であったことから、皇室と同義に転用されている場合もある。
 それでは、三大秘法抄にいう[王法]は、どちらの意味に解すべきであろうか。王法という言葉、そして、別に、権力の主体者そのものを表わす王という言葉が存在することからも、本来的意義は[王の法]であり、王そのものと同義に解することは、例外的な転用といべきであろう。まして、[仏法]という[法]と対置しての用法であり、又、[冥ずる]という言葉の意味との関連からも、権力主体者そのものを指すとは考えられない。
 従って、[王法]とは、東洋的国家観、帝王観の伝統をまえた上での、王の法、即ち王のなす政治内容(先に述ベた、具体的な法令という次元から、政道、王道、政治姿勢といった、より理念的、原理的次元にわたるところの)を意味するものと解明すべきである。
 この王法、即ち王の法が、近代政治学上の概念である[国家の統治主権]と同義であると解することは明らかに誤った独断である。(もちろん、主体である王そのものと解しても、抽象的な統治主権と同じということはなおさらいえない)
 今日における国立戒壇論者(以下単に国立戒壇論者という)は、前後の論より推察するに、国家法人学説ないし国家主権説の皮相的な理解(おそらく、原口雅行氏著「やさしい政治学」程度の初歩的な入門書の学説紹介によったものであろうか)の上に立って、かかる論をなしていると思われる。
 政治学の上から、近代国家を論ずる場合の「主権」という言葉には、種々な意味が含まれている。
 一つには、国民主権(主権在民というも同義)君主主権という場合の「主権」とは、[国家の政治のあり方を最終的に決める力]をいう。[国家における最高の意思]とも[最高の権力]とも言いかえられる。(だから、念のために付言するならば、君主主権の時代に、だれが王か国主かということは、即だれが主権者かということと同じであったといえよう。また、国民主権の時には、最高権力性という点から論ずれば、王、国主は国民であるといえようし、又、国民主権の時代に主権のない王室、皇室が存在しても、それは、君主主権の時のそれとは、本質的に異なるものであるということを充分認識しなくてはならない) 次に、国際法において、主権国、非主権国といって区別されるときの「主権」とは、[国家の独立性]という意味であり、日本国憲法前文第三項に用いちれている「主権」は、まさにこの意味である。更に、「主権」という言葉を、[国家権力の性格]を示す意味に限定してつかう場合がある。国家法人説でいうところの「主権」がそれである。このように、種々用いられる「主権」は、用いられる場合によって、次元とその意味が異なっていることに注意すべきである。これをわきまえずして用いたならば、非常な混乱をきたすのである。特にいわゆる国家法人説(国家主権説というも同じ)でいう主権概念と、国民主権、君主主権という場合の主権概念を並列混同して考えることの誤りは、新憲法制定直後にも一時みられたが、憲法学者達によって、明確に指摘され、改められているところである。
この点については、門外漢の私見を述べをよりも、学者の説を引用する方が解り易い。
 例えば、有名な憲法学者で、国家法人説の代表者といわれる美渡部達吉博士の説は次のとおりである。
 「主権在民とは、国家意思を構成する最高の力が君主に発することをいい、主権在民とはその力が国民に発することをいうもので、それは君主又は国民が統治権の主体たることを意味するのではなく、統治権は何れの国においても常に国家の権利であり、国家がその権利主体であるが、ただその統治権を発動する最高の意思が、国家組織上君主又は国民に属することを言い表わすのである。我が新憲法が国民主権主義をとっているというのは、この最後の意義においての主権、即ち国家の最高意思が国民に発することを主義としていることを意味する」(美濃部達吉・新憲法概論二六頁)
 このように、主権概念を正しくつかいわけてみると、国立戒壇論者の誤りが浮きぼりにされよう。
 国家に統治主権が存在するということは当然であり、それは、天皇主権か国民主権かということとはまったく違った次元のことである。まして、主権者即ち最高権力者が[如何に政治を行なうべきか]という原理としての王法とは、更に一段次元の違うことである。
百歩ゆずって王法を統治主権と解したとしても、国家法人説でいう統治主権は、国家固有のものであり、君主のもつものではない。君主主権、国民主権という場合の主権者は、その機関であり、決して同一次元ではない。だから、国立戒壇論者のいう統治主権を[人に約する]ということが、現代における国主とか王はだれかという論議であると好意的に解釈しても、その答えは(主権論からは)天皇ではなく、国民とならざるを得ない。
 まして、統治主権に対する国民主権、君主主権というときの主権概念は同列、同次元におけないとすれば、王法即ち王の法を統治主権なる概念でおきかえることは不可能である。つまり、国立戒壇論者は、二重の誤りを犯しているということである。
 国家法人学説は、十八世紀のドイツに発した学説であるが、それは、君主と国民の間の主権争いの本質をそらし、君主の立場を擁護し、国家主義的立場を強化するために用いられたといわれている。
 故に、誤って用いれば、政治的に重要な問題をあいまいにし、国家主義、全体主義を強調するための道具にされ易い学説であり、これをあえて論拠とするところに、国立戒壇論者の仏法以前の政治的信条を仏法の名のもとに他に強要しようとする姿勢がうかがわれる。個人の信条としては、いかような考えをもとうと自由であるが、仏法教義に名をかりて、これを他に強制することは仏法の筋道からして許されないことである。何よりも、それは、政治的信条によって、大聖人の仏法を曲げるものといえよう。
 ここで、主権在民ということについて、少し述べたい。
 明治憲法では、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治」することになっていた。しかるに、新憲法では、前文および第一条において、「主権が国民に存する」こと、および憲法自体が国民が代表者を通じて確定したものであると宣言している。又、国政が「国民の厳粛な信託によるもの」であり、「その権威は国民に由来」するものであるとして国権の起源を説明し、「その権力は国民の代表がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という民主主義の方法と目的を述べ、「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」と宣言している。
 これほど明確にされているものを、[国民が統治しているのではなく、民意を反映せしめんとの指向を主権在民というだけ]などということは、よほど常規を逸した時代錯誤の迷見といわれてもいたし方なかろう。国家法人説の学者すら主権は国民にあることを認めているにおいてをや。
或いは、日本の歴史において、種々な政権交替があったにもかかわらず、皇室が存続していることをもって、国主、統治権の主体とする根拠というかも知れないが、これも間違っている。新憲法以前は、いかなる幕府、執権、議会、首相といえど、その権力は主権者たる皇室に由来するものであった。しかし、新憲法下における国家権力は、すべて主権者たる国民の信託によるとされているのであり、この体制の本質的変革という事実を看過しては、正当な論議は不可能である。
 次に、勅宣、御教書を、現時においてなお天皇の詔と国会の議決でなくてはならないとする誤りについて述べる。
 いかに国立戒壇をとなえる者も、幕府とか執権職の存在しない今日において、御教書をそのまま実現せよという愚かさはさすがに自覚しているらしく、これを [国会の議決][内閣の意思]と現代的解釈に転じている。しかし、勅宣については、新憲法にも天皇の国事行為が定められていることをもって、天皇の詔であるとの解釈になお固執している。
 しかしながら、いずれも、現憲法の解釈について明らかに誤りを犯しており、不可能を実現せよというのに等しい。
 今日、憲法二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も、「戒壇建立」などという宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であり、無効な決議は存在しないことと同じである。やれないことや無いことを必要条件に定めることは、結果的には、自ら不可能と決めて目的を放棄することになる。
 又、天皇の国事行為というのは、憲法第六条、第七条に天皇が行なうと定められた行為のことであり、それ以外にはない。従って、憲法第六条、第七条によって天皇に与えられた諸々の行為を総称して「国事に関する行為」と呼んでいるのだともいえる (有斐閣、註解日本国憲法上、一二四頁)。それ以外に、一般、抽象的な国事はあり得ないから、[国立戒壇建立こそ国事の中の大国事]といってみても、およそ荒唐無稽な論議であり、これについて天皇が、詔を発することは、やはり、不可能という他ない。できないことを求められて迷惑されるのは、むしろ天皇であろう。それでも、あえて、戒壇建立のために天皇の詔と国会の議決を要するというならば、戒壇建立のときには、現憲法を改正し、明治以前の天皇制を復活すること(明治憲法下でも、かかる詔を発することはできないと思われる)と、政教分離の規定を廃止することを主張しなくてはなるまい。そして、もしもこのように戒壇建立のために、政治体制を昔へもどせという主張をすら辞さないという、教条主義をつらぬくならば、そもそものはじめから、広宣流布の時には、鎌倉時代の政治体制にもどすべしとの主張をなすべきであって、なまじ、[国会の議決]などと中途半端な現代的解釈をするのは、その主張に首尾一貫を欠き、かえって矛盾をきたしている。
 しかるに、[国会の議決]などと、現代的解釈へ一歩ふみ出したことは、既に教条主義では実現できないことを悟り、これを捨てて、現代への適応へ一歩ふみ出したことであり、そうであれば、現憲法の定める制度にまで歩みよってはならないという根拠は、既に失ったものといわなくてはならない。少なくとも、現時において実現不可能な解釈をしたのでは、五十歩百歩、何のための現代解釈かといわれよう。
ここで考えなくてはならないことは、仏法は何のための存在かということである。一般的用語を用いるならば、それは、人間のため不幸をとりのぞき、幸福をもたらすことを究極の目的とするものであるといえる。人間の幸福のための手段として、政治・経済・料学・文化、その他あらゆる分野が存在し、それぞれの役割を果たしている。仏法は、いうまでもなく、その根底となるものであるが、しかし、すべての領域を具体的に支配したり規定するものではない。それぞれの分野には、それぞれの法則性がを配していることは論をまたない。逆に仏法が政治や経済等によって規定されるものでもないことは当然である。
 はじめに述べた如く、仏法上の目的が、一定の政治体制のもとでしか実現できないと考えることは、仏法が政治に支配され、従属させられることを認めるものである。又、政治体制を、政治自体の原則的な必要からでなく、宗教目的のためだけに変更するということは、明らかに矛盾しているといわなくてはならない。
 又、大聖人の仏法は、時代、社会を超越した普遍妥当性をもつものであり、それ故に、末法万年、尽未来際まで行き止りがなく流布すべきものである。いかなる時代、いかなる体制においても、人々を幸福にする力のあるものである。この本質は、特定の政治体制を仏法の存在条件とするという見解と、明らかに相容れないものである。
 このように考えてくると、国立戒壇論者の主張の基底には、中世国家と近代国家との間の性格、構造上の相違ということを無視した極端な時代錯誤が根づよく存在するように思われる。中世封建国家における王のもっていた国家権力と、民主主義国家における国家権力との間には明らかに相違がある。
 例えば近代国家においては、権力は強大化したという一面もあるかわり、主権者たる国民が定めた憲法によって、国家権力の及ぶ範囲を自ら制限するという点にその最大の特色があるといえよう。「人権宣言」をもつことが、近代憲法の要件であるといわれることは、このことを表わすものである。特にその中で、重要な要素を占める信教の自由、そしてその制度的保障である政教分離の原則を無視することはできない。中世国家では、国王は、宗教に対して支配権をもっていた。しかし、近代の進歩的な国家において国家権力は宗教に一切関与できない。そしてこのことを定めたのは、他ならぬ国主・王であるところの国民自身である。これによって、戒壇建立についても特別に勅許や政府の許可を必要とせず、自由にできることになったのであり、いわば信教の自由の定め自体が、従来の勅宣や御教書にかわる国主たる国民の許可であるともいいうる。信教の自由の原則は、大聖人の仏法と、何ら抵触するものでもないし、むしろ、信教の自由あってはじめて、真の広宣流布が実現できるという現実を直視するとき、軽々に「国法による謗法の禁断」などというべきではない。
 中世封建国家では、権力構造、社会構造が今日のそれより比較的単純であったといえる。その頂点に立って、国家権力が、すべてを統括することも可能であったろうし、それ故に、仏法の働きかけが、かなり率直に権力者そのものに向けられたことは否定できない。しかしながら現代の民主主義社会をみると、単にそれは主権者が交替したというだけではなく、権力構造、社会構造そのものに大きな変動があったことを知るべきである。
 一口に国民主権といい、民主主義という概念にも、憲法論的なあるべき側面と、政治学ないし社会学的な現にある側面とがある。(以下原田鋼・政治学原論三四四頁より要約) 「国民主権における国民とは何であるか。もとより理念的には、主体的個人の集合概念である。しかし実在論的には、解答は必ずしも単純でない。この意味における国民は、固定的なものでなく分析的にみるならば、国民のすべてではなく、最高の政治意志につらなるものは、限定された選挙民団体であることもあるし、さらに限られた議会構成員であることもあろう。すでに考察した権力構造内の各社会階層も、政策決定過程で主権的な機能を果すことができる。また国民を、主権的な国民の意味において政冶的範疇としてかんがえるならば、そこにおける人的な要素が蒸発して、むしろ国家機関としての『議会』となったり、あるいは一層根源的な、しかもある意味において、一層抽象的な『世論』としてしめされる場合もあろう。のみならずまた、主権的な契機は、一層浮動的な政治力として、あるいはまた、経済力としてもあらわれ、それらが主権的な意志形成に加わってくるであろう……(中略)……このように国民主権の内容は、きわめて複雑な実在論的分析をゆるすものである。この点に関するかぎり、主権の帰属点は、カント的な範疇表を使うならば、特称的でなく、全称的である。すなわち主権の帰属点は、基盤社会の状勢変化に応じて、究極において国民主権の理念性を前提としながら、君主、選挙民団体、議会講成員、議会、政党勢力、経済力、最高裁判所、世論、組合勢力等きわめて複雑なものとして分析される」
 このような社会構造の複雑化は、当然のこととして、価値観の多様な分化をも来たしている。
 いわゆる政治権力の枠外に位置している宗教、文化、学問などがこの社会構造の中では重大な影響力をもつようになっているということである。しかも、これらの現象は単に一国内にのみとどまらず、広く国際間においても顕著な傾向である。
 中世国家は、政治権力のみが社会を動かし、統制する力を独占していたといっていい。
 したがって、もし仏法が社会に働きかけ、深く広い影響力を及ぼして行こうとすれば、政治権力に的をしぼることが必要であり、又、それ以外にはなかったのである。
 ところが、前述のように、現代の社会構造ないしその価値観は極めて多元化、多様化の様相を呈しているのであるから、中世国家の社会構造に対するような方法でやっていては、実態を無視したものとなり、何らの実効性をもちえないことは明瞭である。
 かかる現状を認識した上で、今日、王法の解釈をするならば、王法が政治内容だとするのも、なお不充分であり、「王法イコール政治をふくむあらゆる社会生活の原理」とならざるを得ないのである。
 なお、大聖人の御書の中には、仏法が、社会のいかなる面に影響を与えていくかを示唆された御文が散見される。
 一例をあげるならば、減劫御書に「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを太公望出世して殷の紂が頸を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でで代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は、しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(全一四六六)との仰せがある。
 この御文は、法華経の「実相と相違背せず」これを釈した天台の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の経釈を引用して具体論を述べられたものである。
 世間の法が、実相たる妙法と違背しないというのが、法華経の精神である。それは、世間の法の根本が、人々を幸福にするためであり、この、人々を幸福にするという精神が仏
法だからである。
 したがって、智者というのは、世間の法よりほかに仏法を行じているのである。「世間の法より外に」ということは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである。
 その後の事例は、たとえ、仏法を知らなくとも、民衆の苦悩をとどめ(抜苦)あるいは民衆に楽を与えた(与楽)慈悲の指導者は、内心に仏法の智慧をさしはさんでいることを示されたものである。
 ここに、王法という言葉はないが、「世間の治世の法」というのが、王法にあたる。したがって大聖人の用いられる王法には、世間法といった意味合いがこめられていることにも注目すべきである。
 (本章における論述の中で、政治、憲法論にかかる部分については、宮沢俊義博士の著書、および、註解日本国憲法、憲法講座等の諸文献に負うところが多いことを、念のため付言いたします)   


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